【相撲コラム】ふと、一門について考えてみた

日曜日の夜に、こんなニュースが飛び込んできた。
角界最大一門から異例の離脱 千賀ノ浦部屋、貴乃花一門へ
千賀ノ浦部屋、出羽海一門を異例離脱 貴乃花一門へ

千賀ノ浦部屋は4月9日に停年を迎えた先代千賀ノ浦(元関脇・舛田山)に代わり、貴乃花部屋の部屋付き親方だった常盤山(元小結・隆三杉)が新たな師匠となった(先代は常盤山に名跡変更し、4月10日付で参与として再雇用)。
千賀ノ浦部屋は2004年9月場所後に春日野部屋から分家独立して創設された部屋であるが、貴乃花一門から新たな師匠を迎えたことにより、その動向が注目されていたが、最終的に新師匠の意向が尊重された形で貴乃花一門に転籍となった。

さて、本題はその「一門」についてである。
ある朝日新聞の記者が、このニュースについてこんなツイートをしていた。


このツイートからもわかる通り、近年の角界では一門制度についてはよほど重要ではないという認識があるようだが、そもそも「一門」って何だろう…と思い、色々と調べてみた。

現在の大相撲は部屋単位で割り(取組)が組まれる「部屋別総当り制」であるが、かつては一門及び系統単位で割りが組まれる「一門系統別総当り制」が採られており、原則同じ一門での対戦は優勝決定戦を除き組まれなかった(ただし時津風部屋と伊勢ノ海部屋のように、同じ一門でも系統が違う場合は対戦がある)。
また、巡業もかつては一門単位で行われており、月給制のなかった当時の角界ではタニマチなどからの祝儀と共に大きな収入源となっていた。戦前までは一門は巡業組合の意味合いで「組合」とも呼ばれていた。
また、他の一門に情報が漏れるのを防ぐという観点から、一門の違う力士同士の交流も避けられていた。このように、かつての一門制度は角界で大きなウェイトを占めていたのだ。

しかし、1957年に社会党の辻原弘市衆議院議員が衆議院文教委員会にて、当時の大日本相撲協会の設立目的や、力士の祝儀を除いた収入の低さ、協会理事による利益相反行為(理事が相撲茶屋を実質的に経営していた)について質問を行った。相撲協会の在り方を問われる事態に当時の出羽海理事長(元横綱・常ノ花)が理事長を辞任、後任の理事長には時津風(元横綱・双葉山)が就任し、時津風理事長主導のもと、月給制や協会員の65歳停年制の導入、そして部屋別総当り制の導入などの改革が行われる。
また巡業も一門単位から協会主導によるものに代わり、これにより一門制度は事実上希薄化された。

しかしながら現在でも相撲協会は各一門に対し助成金を支払っているほか、理事や審判委員などは一門の枠組みで選ばれていること、一部の年寄や行司の名跡の襲名に一門による縛りがあるなど一門制度はまだまだ色濃く残っており、それによるトラブルも度々起こっている。

  • 1967年1月、出羽海部屋の部屋付き親方の九重(元横綱・千代の山)は、部屋の後継者が出羽海(元前頭1・出羽ノ花=後の武蔵川理事長)の娘婿である横綱・佐田の山に決まったことから、出羽海に大関(後に横綱)・北の冨士ら内弟子13人を連れての分家独立を申し出たが、当時の出羽海一門には「分家独立を許さず」という不文律があり、一門内での話し合いの結果、九重と内弟子10人の独立を認めるものの出羽海一門からは破門とすることが決まった。九重は高砂(元横綱・前田山)の計らいにより高砂一門に移籍し、九重部屋を創設した。
  • 1992年9月、押尾川部屋の部屋付き親方である錣山(元関脇・益荒雄)は、独立を志すべく出羽海部屋の部屋付き親方だった元小結・大晃から阿武松の名跡を購入し襲名。師匠の押尾川(元大関・大麒麟)に独立を申し出たが、一門外からの名跡取得について押尾川に無断で行っていたことから、阿武松は押尾川部屋から事実上破門となった。その後二所ノ関一門の実力者である大鵬(元横綱)の計らいにより大鵬部屋に移籍し、1994年10月に阿武松部屋を創設した。
  • 1998年1月の理事選挙で高砂一門は高砂(元小結・富士錦)と陣幕(元横綱・北の富士)の2名を擁立する予定だったが、当時の境川理事長(元横綱・佐田の山)が私案として打ち出していた「年寄株制度改革」に反発していた「年寄名跡改革小委員会」の委員長を務めていた間垣(元横綱・2代若乃花=二所ノ関一門)と、副委員長の高田川(元大関・前の山=高砂一門)が、境川体制に反発する若手親方の支持を背景に共に一門の調整外で理事選に立候補する事態となった。
    高砂一門では「共倒れ」を防ぐため一門からの候補者を1人に絞ることとなった結果、高砂一門からの候補者は高砂1人となり、協会ナンバー3の広報部長の地位にありながら候補から外された陣幕が相撲協会を退職する事態となった。理事選挙は協会史上初の投票となり、高田川も「反境川派」の支持により当選を果たした(時津風一門の枝川(元大関・北葉山)が落選)が、混乱の責任を取る形で高砂一門から破門となった。
    その後高田川部屋はどの一門にも属さない「無所属」の部屋として活動。2009年7月に部屋を継承した元関脇・安芸乃島がかつて所属していた二所ノ関一門に2012年1月に加入した。
  • 2010年1月の理事選挙で二所ノ関一門は現職の二所ノ関(元関脇・金剛)と放駒(元大関・魁傑)に加え、鳴戸(元横綱・隆の里)を擁立する方向で調整が進められていたが、貴乃花(元横綱)が一門の意向に反して自ら立候補し、二所ノ関一門からの離脱を表明した。二所ノ関一門では鳴戸が立候補を断念すると共に、貴乃花を支持する4部屋6名の親方(音羽山(元大関・貴ノ浪)、常盤山(元小結・隆三杉)、間垣、阿武松、大嶽(元関脇・貴闘力)、二子山(元十両・大竜))を事実上破門とした。その後理事に当選した貴乃花は、支持者である前記6名と共に「貴乃花グループ」として活動することとなった。2012年の理事選挙では立浪(元小結・旭豊)が貴乃花に投票したことを明らかにし、立浪一門を離脱し、貴乃花グループに合流した。立浪一門はこれを受け、一門の名称を「春日山・伊勢ヶ濱連合」に改名(その後「伊勢ヶ濱一門」に再改名)。貴乃花グループは2014年2月に一門への助成金が支払われることが決まったのを機に「貴乃花一門」に改名した。

上記のような騒動があったりはしたものの、今回の千賀ノ浦部屋ように一門の枠を超えた部屋の継承が特に問題もなく行われていることや、一門の枠を超えた力士同士の公私にわたる交流も普通に行われていることも考えると、先に挙げた根岸記者のツイートも納得がいく。勿論、↓のようなツイートも一門制度が厳格だった昔では考えられないことだろう。

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