【相撲コラム】音羽山親方[元大関・貴ノ浪]急逝

2015年4月26日、大相撲超会議場所にて勝負審判を務める音羽山親方(管理人撮影)

2015年4月26日、大相撲超会議場所にて勝負審判を務める音羽山親方。(管理人撮影)

元大関・貴ノ浪の音羽山親方が6月20日、滞在先の大阪で急性心不全により43歳の若さで亡くなった。
現役最後の場所となった2004年5月場所前に心臓の不調で入院し、この場所の3日目に引退。2006年1月末には心房細動、敗血症、重症肺炎などを併発し一時は心停止に陥ったが一命をとりとめた。昨年1月には胃癌の手術を受ける(当時の公式発表は胃潰瘍だった)など体調面の不安が伝えられていたが、その訃報はあまりにも突然であり、角界内外が悲しみに包まれた。

青森県三沢市出身。藤島親方(のち二子山親方。元大関・貴ノ花)にスカウトされ、中学卒業と同時に藤島部屋(のち二子山部屋→貴乃花部屋)に入門。87年3月に本名の「浪岡」で初土俵。4年後の91年3月場所に新十両となり、四股名を師匠の四股名と本名の浪岡を合わせた「貴ノ浪」に改めた。藤島部屋の力士の四股名は当時の女将さんだった藤田紀子氏がつけていたが、貴ノ浪だけは師匠自ら命名したという(6月23日放送の日テレ系「情報ライブ ミヤネ屋」にて藤田氏が証言)。同年9月場所に十両優勝を果たし、翌11月場所、十両優勝を争った大善(現・富士ヶ根親方)、鬼雷砲(元・山響親方)、そして終生のライバルとなる武蔵丸(のち横綱。現・武蔵川親方)と共に新入幕。
公称196cm(実際は2m以上あったとの事)の長身を生かし、相手をクレーンの如く吊り上げるなど豪快な投げや吊り、相手の意表を突く足技を武器に活躍。その取り口は一部からは「無手勝流だ」という批判もあったが、師匠(二子山親方)の個性を生かす指導方針もありその批判も一蹴した。
そして関脇4場所目の94年1月場所で13勝(93年9月場所10勝、11月場所12勝)を挙げ、武蔵丸と同時に大関昇進を果たした。

96年1月場所は同部屋の横綱・貴乃花(現・貴乃花親方)と共に14勝1敗で優勝決定戦に。決定戦で貴乃花を河津掛けで破り、悲願の幕内最高優勝を果たした。翌年11月場所でも貴乃花との優勝決定戦を制し2度目の優勝を果たしたが、惜しくも綱取りはならなかった。
武蔵丸とは幕内で58度も対戦(史上最多の対戦回数)し、成績こそ21勝37敗だったが、互いに良きライバル関係を築いた。

99年9月場所8日目から足の怪我で途中休場、4度目のカド番で迎えた翌11月場所で6勝9敗に終わり、35場所にわたり保持していた大関の地位から陥落したが、翌2000年1月場所で千秋楽に10勝目を挙げ、特例による大関復帰を果たした。しかし大関復帰2場所はいずれも負け越しとなり再び陥落。2度目の大関復帰を賭けた7月場所も負け越しで大関復帰はならなかった。大関在位通算37場所は当時歴代4位(現在は7位)。
大関復帰の道が閉ざされてからも、「自分にしかできない相撲で観客を沸かせたい」と奮闘したが、先述の通り心臓の不調により2004年5月場所3日目に現役を引退。年寄音羽山を襲名した。

引退後は貴乃花部屋付きの親方として、多忙な師匠に代わって部屋の稽古指導を務めた。
寡黙な力士が多かった二子山勢の中で明るい性格として知られ、現役時代から「相撲協会の影の広報部長」としてユーモアに溢れる受け答えで報道関係者からの人気が高く、NHK大相撲中継での解説も好評だったが、2012年2月には記者クラブ担当として広報部に異動となり、正真正銘の広報部員となった。
今年2月には貴乃花一門から初めて審判委員となり、今後は貴乃花一門の参謀役として、そして将来の協会幹部としての期待が高まっていた矢先の悲報だった。

6月22日の葬儀・告別式では師匠の貴乃花親方が沈痛な思いの中で「遺志を引き継いでいく」と語っていた。
今はただ非業の死を遂げた音羽山親方の冥福を祈ると共に、力士、親方問わず相撲界が音羽山親方の遺志を継いで角界の発展にさらに尽力していくことを願ってやまない。

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