剣翔 桃太郎(つるぎしょう ももたろう=安彦改め)
- 本名:安彦剣太郎
- 出身:東京都葛飾区
- 所属部屋:追手風部屋
- 生年月日:1991年07月27日
- 身長・体重:184cm・147kg
- 経歴:葛飾区立大道中→埼玉栄高→日本大卒
- 初土俵:2014年1月場所
- 得意技:押し・右四つ・寄り
- 目標とする力士:遠藤(大学の1年先輩で兄弟子)
- 四股名の由来:本名の剣太郎より「剣」、師匠(大翔山)の四股名より「翔」。追手風部屋では「大翔○」の四股名が多いが、本人が1文字か2文字の四股名を希望したとの事。
- メモ:相撲を始めたのは小学2年生の時で、祖父から、「相撲大会で優勝したら小遣いをやる」と言われたことから。
葛飾区内では最強を誇ったが、4年生になって都大会で1回戦負けを喫したことから、地元の「葛飾白鳥相撲教室」で本格的な稽古を始めた。因みに、白鳥相撲教室は大道、千代大龍、英乃海も巣立っている。
葛飾区立大道中(先述の大道、千代大龍、英乃海も同校出身)でも相撲部に所属し、3年時には全国都道府県別中学選手権で3位に入った。
中学の2年先輩である英乃海の後を追う形で埼玉栄高に進学。3年時にはインターハイの団体優勝に貢献すると共に、全日本ジュニア体重別選手権100kg以上級でも優勝を飾った。大学も英乃海のいる日大に進学したが、3年時に左肘を痛めたこともあり大学4年間では個人タイトルとは無縁だった。
大学の1年先輩である遠藤が所属する追手風部屋に入門し、2014年1月場所で初土俵を踏んだ。前相撲を3連勝で一番出世すると、3月場所は7戦全勝で序ノ口優勝、5月場所も7戦全勝で序二段優勝。7月場所は七番相撲で黒星を喫し三段目優勝を逃したが、幕下に上がった9月場所では、中学・高校・大学の先輩で、場所後に十両に昇進した岩崎(英乃海)にこの場所唯一の黒星を付けるなど7戦全勝で幕下優勝を果たした。
東4枚目まで番付を上げた11月場所は3勝3敗で迎えた七番相撲で敗れ初の負け越しを喫するも、2015年1月場所は東8枚目で5勝2敗、3月場所は東4枚目で4勝3敗、5月場所は西3枚目で4勝3敗と3場所連続で勝ち越し。7月場所は西2枚目で3勝4敗と負け越すも、9月場所は西5枚目で5勝2敗とし、十両昇進の期待もかかったが、十両下位からの陥落者が少なかったこともあり昇進はならず。東筆頭で迎えた11月場所では、十両力士との対戦で3戦3勝するなど5勝2敗として、所要12場所での十両昇進を決めた。東京都からの新十両は英乃海以来戦後47人目。
高い身体能力から繰り出す突き・押しと、右四つからの投げを持ち味とする剣翔。追手風部屋には大学の1年先輩の遠藤、同期でアマチュア横綱の大翔丸、1年後輩の岩崎(英乃海の弟)、高校の2年後輩の大栄翔がおり、それぞれから刺激を受けてきた。
11月場所の十両は同世代の正代が13勝2敗で十両優勝を果たして来場所の新入幕を確実とし、大翔丸も12勝3敗と健闘。それだけに目標は「14番勝ちたい」と意気込む。
千代翔馬 富士雄(ちよしょうま ふじお)
- 本名:ガンバータル・ムンクサイハン
- 出身:モンゴル・ウランバートル市
- 所属部屋:九重部屋
- 生年月日:1991年07月20日
- 身長・体重:183cm・131kg
- 経歴:明徳義塾高中退
- 初土俵:2009年7月場所
- 得意技:押し・左四つ・投げ
- 目標とする力士:千代の富士(師匠)
- 四股名の由来:序二段までは「翔馬」の四股名で取った。九重部屋では基本的に四股名に「千代」を付けるのは三段目になってからであり、翔馬もこれに倣い三段目昇進時に改名した。
- メモ:モンゴル相撲の大関を父に持ち、父が朝青龍と知り合いだったことから自らも力士を目指すようになる。モンゴルを視察に訪れた九重親方(元横綱・千代の富士)から、「入門したら朝青龍に会える」と口説かれ、九重の紹介で朝青龍の母校でもある明徳義塾高に留学した。その後高校を10か月程で中退し、正式に九重部屋に入門。2009年7月場所にて「翔馬」の四股名で初土俵を踏んだ。
入門当初は体重が87kgしかなかったこともあり、軽量力士ゆえの苦しみも味わったが、入門から1年の2010年7月場所で三段目に昇進し、「千代翔馬」に改名。2011年9月場所で幕下に昇進。2012年11月場所では5勝2敗と幕下で初めて勝ち越して、以後は幕下に定着。2015年9月場所は東11枚目で6勝1敗とし、8人によるトーナメント形式の優勝決定戦を制し幕下優勝を果たすと、西3枚目で迎えた11月場所で6勝1敗として、入門から6年半、所要38場所で新十両昇進を決めた。
投げ技を得意とし、特に上手投げが持ち味だが、幕下に定着するまでは軽量ゆえまともな寄り・押しに弱く、引き技を多用することも多かったが、幕下に定着してからは体重が増えたこともあって引き技が影を潜めた代わりに、廻しをとってからの引き付けが活きるようになった。
新十両会見では「(九重)親方みたいに前まわしを取って攻める相撲を取りたい」と語った千代翔馬。これに師匠は「まあ所詮無理だろうけど」と辛口の返しをしたが、それでも「少しでも言うことを聞いて、実行していくこと。それが近づける要素だ。」とエールを送った。師匠・千代の富士も幕内に定着するまでは体重が100kg以下の小兵であり、全盛期でも127kg程だったが、鍛錬に鍛錬を重ねて昭和の大横綱にまで上り詰めた。師匠が最大のお手本であることは言うまでもないだろう。