【相撲コラム】昭和の大横綱・北の湖理事長死去

住吉大社での奉納相撲に出席した北の湖理事長(2013年3月2日) By Ogiyoshisan (Own work) [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

住吉大社での奉納相撲に出席した北の湖理事長(2013年3月2日)
By Ogiyoshisan (Own work) [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

第55代横綱で、日本相撲協会理事長の北の湖敏満氏が、九州場所13日目の11月20日18時55分、直腸癌と多臓器不全のため、済生会福岡総合病院で亡くなられた。享年62。

2013年6月9日に行われた還暦土俵入りに際し、直腸癌の手術を受けていたことが明らかになったが、角界再興のために尽力していた。しかし、今年7月の名古屋場所中に両側水腎症(腎臓に尿が溜まる病気)のため途中休場。9月の秋場所も公務にこそ復帰したが、初日の協会挨拶や千秋楽の表彰式などを欠席。
九州場所に入っても、場所前の恒例行事となっていた「横綱会」が北の湖理事長の体調を考慮し中止(先代鳴戸親方(隆の里)の急逝により中止となった2011年以来2度目)になったほか、初日の協会挨拶も欠席。それでも病身を押して会場の福岡国際センターに足を運び、公務を務めていた。
しかし、この日も公務を務めていた12日目(11月19日)の夜に体の不調を訴え、翌朝には救急搬送。協会からは「貧血のため13日目を休場」と発表され、体調が回復すれば14日目より復帰の見通しとされていたが、その後容体が悪化。18時55分、ついに帰らぬ人となった。理事長在職中の逝去は1968年12月16日に死去した時津風理事長(35代横綱・双葉山)以来だった。
角界の一時代を築いた大横綱にして、相撲協会のトップとして邁進してきた北の湖理事長の突然の死に、角界は悲しみに包まれた。

1953年(昭和28年)5月16日、北海道有珠郡壮瞥町の農協職員である小畑家で、8人きょうだいの7人目(四男)として敏満は生まれた。
奇しくもこの日、NHKの大相撲テレビ中継が始まっている。
幼い頃から食欲旺盛だったこともあり、中学に進学する頃には身長173cm、体重100kgの堂々たる体型となった。柔道では中学1年で初段を取り、町の柔道大会では自分よりもはるかに大きい高校生をも破る一方で、自らは野球が大好きであり、水泳やスキーでも才能を発揮していた。
相撲経験は全くなかったものの、「北海道南部に怪物がいる」という噂を聞きつけた数多の相撲部屋が敏満少年を入門させるべく争奪戦を繰り広げたが、女将さんが送ってくれた手編みの靴下が決め手となり、元大関・初代増位山の9代三保ヶ関親方が師匠を務める三保ヶ関部屋への入門を決意し、同時に東京の中学に転校した。
1967年1月場所、師匠の長男である瑞竜(後の大関・2代増位山。10代三保ヶ関親方(2013年11月停年退職)。現在は歌手・増位山太志郎として活動)と共に初土俵を踏んだ。四股名は出身地である壮瞥町に隣接する洞爺湖に因んで「北の湖」と名付けられた。以後終生この四股名で相撲人生を送ることとなる。
まだ中学在学中ということもあり、本格的な稽古は夏休みや日曜日しか出来ないという状況ながら、恵まれた体格と高い身体能力で当時の各段の最年少昇進記録を更新。中学卒業間際の1969年3月では15歳9ヶ月で幕下に、1971年5月場所には17歳11ヶ月で十両に昇進した。
1972年1月場所では18歳7ヶ月で新入幕。この場所は5勝10敗に終わり十両に戻ったが、1場所で再入幕。1973年1月場所では19歳7ヶ月で新小結となった。新関脇として迎えた1973年11月場所では9勝2敗としていた12日目に足首を骨折したものの千秋楽まで土俵を務め、10勝5敗とした。
1974年1月場所では14勝1敗の成績で初優勝し、場所後大関に昇進。5月場所では13勝2敗で2度目の優勝。7月場所でも13勝2敗の優勝同点(優勝決定戦で輪島に敗れる)とし、遂に第55代横綱に昇進した。この時まだ21歳2ヶ月。これは横綱昇進の最年少記録であり、40年以上たった現在でも未だに破られていない。

横綱となって以降も1978年の5場所連続優勝など、力強く前に出る相撲でその強さを存分に発揮する北の湖であったが、倒した相手力士に一切手を貸すことなく勝ち名乗りを受けるなどの行動が「傲慢」だとしてファンのヒートを買い、いつしか「憎らしいほど強い男」と呼ばれるようになり、北の湖が敗れると観衆が湧いたこともあった。子供の大好きなものを並べた流行語「巨人・大鵬・卵焼き」の対極として、「江川・ピーマン・北の湖」という言葉が生まれたり、「くたばれ北の湖」(唄:行事美佳と劇団こまどり)というレコードも発売されたほどだったが、それは逆に北の湖自身が発奮する要因ともなっていた。敗れた力士に手を貸さなかったのは、「自分が負けた時に相手から手を貸されたらそれは屈辱である」という北の湖の美学であった。
その一方で、先輩横綱であり、日大相撲部出身のエリートでもある輪島とは良きライバルとして渡り合い、「輪湖(りんこ)時代」として一時代を築いた。輪島とは1972年7月場所の初顔合わせ以来、輪島が引退した1981年1月場所まで延べ44回対戦し、21勝23敗。因みに北の湖の横綱昇進前までは3勝9敗であったが、横綱昇進後は18勝14敗である。
1975年9月場所から1981年9月場所まで37場所連続2桁勝利(2013年5月場所で白鵬に破られるまで最長記録だった)を挙げるなど「不沈艦」と呼ばれた北の湖だったが、1981年11月場所9日目に膝を痛め初土俵以来初めての休場。以後は怪我との戦いとなった。1982年1月場所で23回目の優勝を果たして以降は同年7月場所に初の全休、翌1983年3月場所から7月場所まで3場所連続休場するなど、主役の座を千代の富士や隆の里に明け渡したかに見えた中で、1984年5月場所で4年ぶりの全勝優勝を果たし存在感を見せつけたが、新築された両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所で初日から2連敗し、3日目に引退を発表した。

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北の湖部屋(2014年12月) 管理人撮影

引退に際し、現役時代の功績を讃え、大鵬以来2人目となる一代年寄・北の湖が贈呈された。1985年12月には三保ヶ関部屋から分家独立し、「北の湖部屋」を創設。部屋は江東区清澄の同じく一代年寄の大鵬親方が興した大鵬部屋(現・大嶽部屋)と同じ通りの50メートル先に建設され、この両部屋がある通りはいつしか「横綱通り」と呼ばれるようになった。
北の湖部屋からは現在までに独立時の弟子である太晨・月山(金親)、入門第1号の巌雄(現・山響親方)に北桜(現・式秀親方)、将兜(須佐の海)、現役では北太樹、北はり磨、鳰の海、徳勝龍(現在は木瀬部屋所属)、明瀬山(同)など14人の関取を輩出した
その一方で協会内では34歳で審判部副部長に抜擢され、1996年には理事に就任。1998年には協会No.2の事業部長に就任するなど順調に出世し、2002年2月に第9代日本相撲協会理事長に就任した。
理事就任後は総合企画部の新設および広報部の強化、相撲協会ホームページの開設などによるファンサービスの充実を図ったほか、境川理事長(元横綱・佐田の山)時代に行われた「年寄名跡の貸借禁止」や「協会自主興行巡業」を廃止するなどの改革を行うなど相撲人気回復のために尽力したが、2008年9月場所前に若ノ鵬が大麻所持で逮捕されたのを皮切りに大相撲力士大麻問題が発生。弟子の白露山も関与していたことが明らかとなったことから、理事長を辞任した。2011年には大相撲八百長問題での弟子(清瀬海)の関与のため理事も辞任している。

しかし、2012年1月の役員改選で再び理事に当選すると共に、再び理事長に就任(12代)。実はこの時点ですでに直腸癌を患っていたのだが、期日が迫っていた相撲協会の公益法人化と、相次ぐ不祥事により失墜した角界の信頼回復という2つの大きな事案を乗り切るべく再登板を果たしたのだった。2013年6月9日には太刀持ちに千代の富士(九重親方)、露払いに貴乃花(一代年寄)を従え、還暦土俵入りを披露した。
2014年3月、北の湖の尽力により、相撲協会は公益財団法人として新たなスタートを切り、北の湖は公益法人としての初代理事長となった。
長らく低迷していた大相撲の人気も徐々に回復。高いカリスマ性と、強いリーダーシップを兼ね備えた理事長として協会運営に尽力してきたが、北の湖は人気回復の要因を「土俵の充実」であるとして、現場の力士たちを立てる発言を常々行っていた。

九州場所では前述の通り体調が優れない中でも毎日会場で相撲を見届けた。10日目に横綱・白鵬が対栃煌山戦において「猫だまし」の奇襲を行ったことについて、「横綱としてやるべきことじゃない。前代未聞じゃないの?横綱でやった人はいないでしょう。連勝してもいい風には見られない。みんな(モヤモヤした)気持ちが残っちゃうでしょ。横綱はそんな風に見られちゃダメ。」とコメントするなどトップとして強い威厳を示したのは記憶に新しいところだ。
亡くなる前日の12日目も記者陣に対して、「日馬富士は白鵬と1差の直接対決まで何とか持ってきた。褒めてあげたい。勝負は7対3で白鵬が有利。豪栄道は厳しい状況だが、ここで諦めてはいけない。松鳳山は12番で10勝。これは大変なことだよ。」とコメントしたが、結果的にこれが北の湖の最期の言葉となってしまった。

「憎らしいほど強い」と言われながらも、最強の「ヒール」として一時代を築き、協会トップとしては「土俵の充実」を第一に掲げて、死の直前まで角界の再興に尽力した北の湖。今はただ、早すぎる死を悼むと共に、後進の親方衆や力士など協会員一同が北の湖の遺志を受け継ぎ、更なる相撲人気の隆盛に努めて欲しいと願うばかりである。

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