勝負審判を務める朝日山親方(2005年5月場所)
今年1月限りで閉鎖された朝日山部屋(2014.12.21撮影)
今場所限りで停年退職する朝日山親方(元大関・大受)が65歳の誕生日である19日に会見を行った。
(※通常は誕生日前日で停年となるが、誕生日が場所中の場合はその場所の千秋楽で停年となる。)
→“シリコン親方”が定年退職 朝日山親方「やり切った」
中学1年の時に北海道から上京して元大関・三根山の高島部屋に入門。東京の中学に通いながら稽古に励んだ。しかし当時の新弟子検査の規定である身長173cmに足りず、なかなか初土俵を踏めずにいた。そして上京してから3年目の1965年3月、頭頂部にシリコーンを入れるという「荒業」を敢行して何とか新弟子検査に合格した。(その後舞の海(元小結・現タレント)が同じようにシリコーンを使って新弟子検査を通過こともあったが、安全性を考慮して現在は禁止となり、その代わりに新弟子検査の身長規定が見直されている。) その後は得意の押し相撲で番付を駆け上がり、1969年9月場所新十両。新入幕の1970年5月場所ではいきなり技能賞を獲得した。
関脇の地位でこれまで10勝、11勝として臨んだ1973年7月場所では、13勝2敗の好成績を挙げ、史上初の三賞トリプル受賞(この時の三賞受賞は大受のみだった為、三賞独占でもある)を果たし、翌9月場所に大関に昇進した。
新大関の場所は8日目から休場。カド番で迎えた11月場所は9勝6敗で乗り越えたが、翌1974年3月場所ではまたしても9日目より休場して2度目のカド番。しかし、5月場所では6勝9敗に終わり、大関の座から陥落してしまう。特例での大関復帰(陥落翌場所に10勝を挙げれば大関復帰)が懸った7月場所は12日目に長谷川に敗れ6敗目を喫し、大関復帰の道が絶たれてしまった。結果大関在位はわずか5場所にとどまり、年6場所制となってからのワースト記録となってしまった。
その後も満身創痍の体に鞭を打ちながら土俵に立ち続けたが、1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落。この頃師匠(三根山)との関係が悪化していた(師匠が勧めた縁談を断った為ともいわれている)こともあり年寄名跡の取得もできていなかった為、やむを得ず出場するが、初日から3連敗で4日目から休場、10日目に引退した。
立浪・伊勢ヶ濱連合の領袖である7代伊勢ヶ濱(元大関・清國)の助け舟もあり年寄・楯山を襲名して、伊勢ヶ濱部屋に移籍して後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に一門の朝日山部屋の師匠(元小結・若二瀬)が急逝したため、師匠代理を経て江戸時代の大坂相撲を起源とする名門部屋を継承し、先代からの弟子である幕内・大真鶴や直弟子の十両・鬼嵐などを育成した。
親方としては長年にわたり審判委員を務め、2012年3月場所から今年の1月場所までは審判部副部長を務めた。
自身の停年が間近に迫ったことと、後継者不在のために今年1月場所限りで朝日山部屋を閉鎖。昨年の11月場所中に設けられた年寄の再雇用制度は利用せず、22日の千秋楽で50年にも及ぶ土俵生活に別れを告げることとなった。
50年を振り返った朝日山は「現役も含め50年務めたことを誇りに思う。運よく協会にも残らせていただき、十分やり切った」と清々しい表情で答えた。
大関としては在位わずか5場所と不本意な成績に終わり、師匠としても後継者を育成できなかった(大真鶴は関取在位あと2場所で継承資格が得られたが、大怪我に泣いた)ことはさぞかし悔いが残ると思われるが、この言葉を聞く限り、朝日山本人には悔いはないようだ。
思い出の取組は新関脇の1971年3月場所5日目、初日から4連敗中で迎えた横綱・大鵬戦。一気の押しで大鵬に初勝利し、この場所を8勝7敗として殊勲賞を獲得した。「三賞独占や大関もうれしいけど、大鵬関を破ったことと(新弟子)検査を合格したことに比べれば感動はなかった」(朝日山)
そして朝日山は後輩力士に対し、このようなメッセージを送った。
「最後まであきらめるな。負け越してからの最後の一番を大事にして欲しい」
この言葉、昨日まで初日から13連敗中の松鳳山をはじめとして、今場所負け越しが決まった12人の力士たち(20日現在皆勤で8敗以上の幕内力士数)はどう捉えるだろうか…