【相撲コラム】37代木村庄之助、今日最後の土俵

2013年3月2日、住吉大社での37代木村庄之助(当時は39代式守伊之助)

朝日山親方の停年会見が行われた19日、立行司の37代木村庄之助も停年会見を行った。
【春場所】定年の第37代木村庄之助が会見「軍配迷ったことは一度もない」
1965年高島部屋に行司見習いとして入門(奇しくもこの時に大受(朝日山親方)も高島部屋から初土俵を踏んでいる(入門は大受の方が2年程早い))し、同じ一門(立浪・伊勢ヶ濱連合)の4代木村玉治郎(後の27代庄之助)に師事。7月場所に木村三治郎の名で初土俵を踏んだ。1977年1月場所に幕下格に昇進と同時に師匠(当時は23代伊之助)の前名である5代木村玉治郎を襲名。初土俵から24年目の1989年1月場所、38歳で十枚目格に昇格した。しかし、5年後に災難に見舞われる。
1994年11月場所の12日目の夜、博多の夜の街で酒を飲み、タクシーを拾おうとした時に大型バイクにはねられ、10mほど跳ね飛ばされた。尻から着地したこともあり命に別状はなかったが、血まみれとなるほどの重傷を負い、残り3日間は休場となった。その後、2001年1月場所に幕内格に昇格し、2003年1月場所に10代木村庄三郎を襲名。
2007年9月場所に三役格に昇格したが、その直後にまたしても庄三郎を試練が襲う。
場所後の健康診断で食道がんが発覚。行司は声が命なだけに本人も「もうだめだ」と思ったそうだが、声帯を傷つけずに手術が施され、無事成功。翌2008年1月場所で復帰を果たした。
しかし復帰から4年後、またしても災難に…
2012年1月場所の4日目の把瑠都-若荒雄戦で、把瑠都に押し出された若荒雄とぶつかり、土俵下に転落。一時意識不明となり、救急搬送されたが、翌5日目には土俵に立った。因みに、気付いたときは診療所のベッドの上だったそうで、ぶつかった前後の記憶はないそうだ。
交通事故、がん、土俵禍と3度の災難を乗り越え、2012年11月場所、62歳で立行司に昇格し、39代式守伊之助を襲名。翌2013年11月場所で37代木村庄之助を襲名した。
ハスキーな声が特徴的で、堅実な所作に定評がある庄之助。思い出の一番として挙げたのは立行司・伊之助として初めて迎えた2012年11月場所9日目の日馬富士-豪栄道戦。豪栄道が日馬富士を土俵際まで追い詰めた時に向正面の湊川審判(元小結・大徹。現・評議員)が「日馬富士の足が出た」として取組を止めたが、協議の結果誤審であることがわかり、前代未聞の「立ち合いからのやり直し」となった一番である(やり直しの結果日馬富士が勝利)。この事態にはさすがに困惑したようで、「50年やってると、いろんなことがある」としみじみ語っていた。
停年後は「温泉巡りと釣りを楽しみたい」と語った庄之助。50年間の土俵生活での唯一の心残りは、「日本人横綱の取組を裁けなかったこと」との事。この言葉を、稀勢の里・琴奨菊・豪栄道の3大関をはじめとする日本人力士はどう捉えるだろうか…

そして今日、白鵬と照ノ富士による優勝争いが千秋楽まで持ち越された中で、結びの白鵬-日馬富士戦が37代木村庄之助の最後の一番となる。
ファンは是非とも庄之助の最後の取組を目に焼き付けて欲しいと思う。

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