【相撲コラム】足技の名手・時天空死去

元小結・時天空の間垣親方が1月31日1時12分、悪性リンパ腫のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去した。享年37。
2015年7月頃から右脇腹の痛みを訴え、10月より抗癌剤治療を開始。11月場所を「右肋骨骨折」のため全休していたが、翌2016年1月場所直前に悪性リンパ腫であることを公表し、土俵への復帰を目指して治療に取り組んでいたが、5場所連続全休により三段目まで番付を下げたこともあり復帰を断念、8月に現役引退を発表した。年寄間垣を襲名し、9月場所では親方として業務にあたったが、翌11月場所を体調不良により全休。翌2017年1月場所も全休し治療に専念してきたが、1月30日午前に容態が急変し、31日未明に帰らぬ人となった。

生い立ち

1979年9月10日、ブフ(モンゴル相撲)においてナチン(大相撲の小結に相当)の称号を持つ父のもとにウランバートルで産まれたアルタンガーシン・フチットバータルは、少年時代からウランバートル市内の柔道クラブで後の横綱・朝青龍、日馬富士や朝赤龍らと共に鍛錬を重ねてきた。
農業を学ぶべく国立農業大学に進学したフチットバータルに転機が訪れたのは20歳の春。2000年4月、スポーツ交流留学生として東京農業大学に転入した。相撲部に入部し、1年次の全国学生相撲個人体重別選手権大会の100kg未満級で優勝した。当初東農大を卒業した後はモンゴルに帰国して教職に就く予定だったが、かつて同じ道場で切磋琢磨してきた朝青龍や朝赤龍らが大相撲で活躍するのを見て、フチットバータルも大相撲に興味を持つようになった。大相撲入門時の年齢制限である23歳となる目前の2002年6月に時津風部屋に入門。当時の師匠で東農大の大先輩である時津風親方(元大関・豊山)との約束で中退はせず、大学3年在学中のまま7月場所で初土俵を踏んだ。四股名の「時天空」は、時津風部屋の「時」と、モンゴルの広い空からイメージした「天空」を合わせたもので、当時の東農大相撲部監督が命名した。

入門からスピード入幕、新三役へ

前相撲では同期7人の中で1番目に出世。翌9月場所では7戦全勝で序ノ口優勝、更に翌11月場所は序二段、翌2003年1月場所は三段目(同部屋の豊ノ島との優勝決定戦を制す)といずれも7戦全勝で優勝。序ノ口から3場所連続優勝は昭和以降3人目。幕下に昇進した翌3月場所の二番相撲で古市(元十両)に敗れるまで序ノ口から22連勝。これは当時史上1位だった板井の26連勝(現在の史上1位は佐久間山(現・常幸龍)の27連勝で、時天空は史上4位)に迫る成績だった。その後も着実に番付を上げ、2004年3月場所、所要10場所で新十両昇進を果たす。また、同時に大学を卒業。卒業論文は「システムダイナミックスによるモンゴルの人口動態に関する研究」。
十両2場所目の5月場所では12勝3敗で十両優勝を果たし、翌7月場所新入幕。前相撲から所要12場所での新入幕は当時史上1位タイ(現在の史上1位は常幸龍の9場所)のスピード記録であった。
柔道経験を活かした内掛けや二枚蹴りなどの足癖に加え、入幕以後は更に強烈な突っ張りを武器として3度目の入幕となった2005年3月場所以降は幕内に定着。11月場所では10勝5敗で技能賞を獲得した。翌2006年1月場所では西前頭筆頭となるが、三役相手に苦戦を強いられ5勝10敗。この年は平幕上位と中位の往復となるが、翌2007年1月場所では西前頭2枚目で勝ち越しを決め、翌3月場所では小結に昇進した。

三役昇進後の苦難。日本国籍取得

新小結として迎えた3月場所は初日に朝青龍を破るなどの活躍を見せるも惜しくも7勝8敗に終わったが、7月場所で再び小結に。またしても7勝8敗で定着できなかったものの、11月場所では4大関(琴光喜、千代大海、琴欧洲、魁皇)を撃破する活躍を見せた。
以後は6場所連続(2008年の6場所すべて)で負け越すなど低迷期が続いたが、2012年3月場所では東前頭2枚目と久々に平幕上位に浮上した。その3月場所では2勝13敗という成績に終わったが、5日目には当時大関の稀勢の里を蹴手繰りで破っている。
翌2013年7月場所では35場所ぶりに小結に復帰。これは昭和以降では史上2位のスロー記録である。3度目の小結となったものの横綱・大関陣に1勝もできず、4勝11敗に終わりまたしても三役定着はならなかった。この頃はすでに33歳という年齢もあり、足技は健在だったものの、あっさりと土俵を割って負ける相撲も多くなってきていた。三役に3度も昇進しながらも定着はできず、更に年齢的な衰えもあって時天空にとってはつらい日々が続いたが、モンゴル出身の先輩である旭天鵬(現・大島親方)の奮闘を見て、自分も息の長い活躍を見せようと自らも奮起。かねてから稽古熱心で知られてはいたが、より熱心な稽古を重ねていった。
2014年1月には日本国籍を取得し、日本名を「時天空慶晃」とした。更に5月には年寄名跡「間垣」を取得している。

病魔との闘いも力尽く

そんな時天空の体に異変が起きたのは2015年7月場所中のことであった。右脇腹に痛みを覚え、病院で検査を受けたが、診断は「右肋骨亀裂骨折」。しかし9月場所になっても痛みはますます酷くなる一方。場所後に精密検査を受けた結果、診断は「悪性リンパ腫」だった。すぐさま抗癌剤治療が開始された。
11月場所は「右肋骨骨折」で休場したが、翌2016年1月場所前には師匠の時津風(当代)より、悪性リンパ腫で闘病中であることが公表された。それでも時天空は再び土俵に戻ることを目標として懸命の治療を続けてきたが、体力が回復せず、9月場所が目前と迫った8月25日、ついに土俵への復帰を断念し、現役引退と年寄「間垣」襲名を発表した。
抗癌剤の副作用で毛髪が抜け落ちることへの懸念から2015年11月に病室で断髪式を行っており、引退会見では丸刈りとなっていた。引退会見では放射線治療により腫瘍が小さくなったとして、今後は後進の育成に意欲を示した。9月場所では場内警備やNHK大相撲中継の解説など親方としての業務をこなしていったが、翌11月場所は体調不良で休場。続く2017年1月場所も休場し、自宅で療養に努めてきたが、1月30日の午後、家族に「呼吸が苦しい」と訴えて慶應病院に救急搬送。そして、翌31日未明に息を引き取った。入門時の師匠である先々代時津風は愛弟子の早すぎる死に「残念の極み」と語ったが、一番無念だったのは、時天空本人だっただろう。

三役定着こそならなかったが、蹴手繰りに代表される鮮やかな足技で観客を魅了した時天空。それを支えたのは入門以来熱心に取り組んできた稽古であったことはいうまでもないだろう。そして優しい人柄が評価され、病を克服して親方としての活躍を期待されながらもついには叶わなかったが、その精神は必ずや受け継がれていくことだろう。

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