【相撲コラム】小さな大横綱「ウルフ」千代の富士死去

2010年初場所、国技館入りする九重部屋By Route246 (Own work) [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

2010年初場所、国技館入りする九重親方
By Route246 (Own work) [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

小柄な体格ながら、史上3位の幕内最高優勝31回、史上2位の通算1045勝の記録を打ち立てるなど無類の強さで「ウルフ」の愛称で親しまれ、角界初の国民栄誉賞受賞者ともなった第58代横綱・千代の富士の九重親方が2016年7月31日17時11分、東京大学付属病院で死去した。享年61。
昨年9月の秋場所初日、名古屋場所を全休して膵臓癌の手術を行っていたことを公表し、以後公務に復帰しながら治療を継続していたが、懸命の治療の甲斐なく61歳の若さで旅立ってしまった。
昨年11月には優勝回数24回の第55代横綱・北の湖前理事長が62歳で死去したが、角界は昨年に続き、一時代を築いた大横綱を失った。

1955年6月1日、北海道松前郡福島町の漁師の家に生まれた。子供の頃から漁を手伝っていた甲斐あって中学時代には陸上競技で活躍するなど身体能力は抜群だった。盲腸の手術を行った時の執刀医の紹介で同じ福島町出身の九重親方(第41代横綱・千代の山)が貢少年をスカウトしようとしたが、本人は相撲に興味がなく、両親も反対だったため一旦は引き下がったものの、それでも諦めきれない九重は、貢少年に、「とりあえず東京へ行こう。入門するなら飛行機に乗せてあげるよ。」と言うと、飛行機に乗せてもらえると喜んだ貢少年は親の反対を押し切り九重部屋に入門。台東区立福井中学校(現在は廃校)に転校し、本名の「秋元」で1970年9月場所に初土俵を踏んだ。序ノ口で初めて番付に載った翌11月場所は「大秋元」を名乗り、更に序二段に上がった翌年1月場所より、師匠の「千代の山」と、部屋頭の横綱北の富士(第52代横綱)に因んだ「千代の冨士」に改名した(「千代の富士」としたのは十両昇進後の1975年1月場所からである)。
中学卒業後は相撲を辞めて北海道に戻るつもりだったが、体重100Kgに満たない(入門時は68Kgだった)小柄な身体ながらも気性の激しさを表す取り口で順調に出世し、1974年11月場所、19歳5ヶ月で新十両に昇進した。5文字の四股名の関取は史上初であった。
そしてこの頃から鋭い眼光から「ウルフ」の異名で呼ばれるようななった。
翌1975年9月場所で、昭和30年代生まれの力士として初めての新入幕を果たすが、荒い相撲が災いして5勝10敗に終わり、1場所で十両陥落し、更に1976年3月場所では幕下に陥落。7月場所再び十両に返り咲くが、この頃から先天的な左肩の脱臼癖に悩まされるようになった。
それでもこれまでの力任せの投げ技中心だった相撲から頭をつける相撲に変えていき、1978年1月場所で再入幕。5月場所では初の三賞となる敢闘賞を受賞、7月場所では新小結となるなど着実に力をつける。1979年3月場所で今度は右肩を脱臼し途中休場を強いられるが、肩の周りの筋肉をウェイトトレーニングなどにより強化することに活路を見出す。再び十両に落ちた翌5月場所は手続きの不備により公傷が認められなかったこともあり3日目から強行出場し、9勝を挙げ1場所で幕内に戻る。前まわしを取ってからの一気の寄りという千代の富士の取り口はこの頃に完成し、翌1980年3月場所では2日目に三重の海(第57代横綱・後の武蔵川理事長)から初金星。10日目には2代若乃花(第56代横綱・後の間垣親方)からも金星を奪う活躍を見せ技能賞を獲得。再小結となった翌5月場所は6勝に終わるも、7月場所からは4場所連続で技能賞を獲得。そして関脇2場所目の地位で迎えた1981年1月場所は初日から14連勝の快進撃。千秋楽の本割で1敗で追いかけていた北の湖に敗れたが、優勝決定戦で勝利し初優勝。この時の大相撲中継の瞬間最高視聴率は65.3%に達し、これは現在も大相撲中継では最高記録となっている。そして場所後大関に昇進。
新大関となった3月場所は11勝、翌5月場所は13勝として迎えた7月場所では千秋楽で北の湖を破るなど14勝1敗で2度目の優勝。場所後第58代横綱に昇進した。
新横綱として迎えた9月場所は2日目の小結隆の里(後に第59代横綱)戦で左足を痛めて途中休場する憂き目に遭ったが、翌11月場所では優勝決定戦で小結朝汐(後に大関・現高砂親方)を破り3度目の優勝。この2年間の活躍で千代の富士の人気はうなぎ登りとなり、俗にいう「ウルフフィーバー」となった。
その後翌1982年には3場所連続優勝するなどしたが、途中故障による低迷期があり、30歳を迎えた頃には限界説まで囁かれたが、千代の富士の黄金時代は30代に入ってからだった。
1985年は両国国技館の杮落としとなった1月場所で全勝優勝するなど4回の優勝。翌1986年は怪我で途中休場した3月場所を除く5場所で優勝。そして1988年。3月場所を全休して迎えた5月場所。5勝1敗で迎えた7日目の花の湖戦から、同年11月場所千秋楽で大乃国(第62代横綱・現芝田山)に敗れるまで、大鵬の45連勝を抜き、双葉山(69連勝)に次ぐ当時史上2位(現在は白鵬(63連勝)に次いで史上3位)となる53連勝を成し遂げた。左四つからの一気の上手投げは俗に「ウルフスペシャル」とも呼ばれ、千代の富士の代名詞ともなった。
1989年、3月場所を14勝1敗(1敗は左肩脱臼で千秋楽不戦敗)で優勝したが、翌5月場所は左肩の治療のため全休。6月には同年2月に生まれたばかりの三女を亡くす不幸に見舞われ7月場所は出場が危ぶまれるも、12勝3敗で弟弟子であり嘗ての付け人でもある北勝海(第61代横綱・現八角理事長)との史上初の同部屋の横綱同士による優勝決定戦を制し、「奇跡の優勝」と讃えられた。同年9月には角界初となる国民栄誉賞を受賞した。
1990年3月場所7日目には前人未踏の通算1000勝を達成。同年11月場所には31回目の優勝を果たすが、これが千代の富士の最後の優勝となった。
1991年、1月場所2日目で左腕を負傷し途中休場し、3月場所も全休した中で迎えた5月場所初日。18歳の新鋭・貴花田(後の第65代横綱・貴乃花・現一代年寄)との初顔の一番で、まわしを取ることが出来ず敗れた。この時は引退を否定し、翌2日目の板井戦は勝利したものの、3日目の貴闘力戦で敗れ、この日の夜に現役引退を表明した。

協会からは全会一致で一代年寄が認められたものの、「部屋の名前は一代で終わるものにしたくない」との理由から辞退し、17代陣幕を襲名。1992年4月には嘗ての兄弟子でもある師匠・12代九重(北の富士)と名跡交換し、13代九重として九重部屋を継承した。
師匠としては大関・千代大海を筆頭に小結・千代天山、千代鳳、千代大龍や幕内・千代白鵬、千代の国、千代丸など12人の関取を育成する一方で、協会でも審判部副部長や広報部長、審判部長、事業部長などを歴任したが、2014年の理事選挙で落選し、その後は監察委員を務めた。
60歳の誕生日前日の2015年5月31日、太刀持ちに白鵬、露払いに日馬富士と2人の現役横綱を従え還暦土俵入りを行い、現役時代を彷彿とさせる筋骨隆々の肉体で健在をアピールしたが、、その直後の7月場所を内臓疾患により全休。翌9月場所より公務に復帰するが、この時に膵臓癌の手術を受けたことを明らかにした。
その後は治療を受けながら弟子の育成に尽力していたが、2016年に入り癌が転移。7月場所4日目には体調不良を訴え帰京し入院。そして7月31日、家族に看取られながら61年の生涯に幕を降ろした。

全盛期でも身長183cm、体重126Kgという力士としては決して恵まれていない体でありながら、筋骨隆々の肉体と端正な顔立ち、そして「ウルフスペシャル」に代表される鮮やかな取り口で老若男女から多くの支持を受けた千代の富士。管理人自身もそうだったが、現役時代の千代の富士の活躍を見て相撲ファンになった人も多く、相撲を知らなくても名前だけは知っているという人も多かった(入門当時の千代大海がそうだったという)。それだけ、人々の心に深い印象を与えたいわば角界のアイコン…それが千代の富士であった。

九重部屋は8月2日付で愛弟子の元大関・千代大海(佐ノ山親方)が14代九重を襲名して継承した。
10月1日には、国技館1階エントランスで九重部屋後援会主催による「お別れの会」が行われることが決まっている。
今はただ稀代の大横綱の冥福を祈ると共に、九重部屋の力士のみならずすべての力士が遺志を受け継ぎ、角界の隆盛に寄与していくことを願ってやまない。

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