【相撲コラム】新大関・照ノ富士誕生!

5月27日の番付編成会議および臨時理事会で、5月場所で初優勝を果たした関脇・照ノ富士の大関昇進が決定した。
平成生まれでは初の大関であり、三役2場所での大関昇進は1951年5月場所の吉葉山(後に第43代横綱)以来64年ぶり(年6場所制となった1958年以降では初)となる。
また、初土俵から所要25場所、入幕から所要8場所での大関昇進はいずれも1958年以降では史上3位のスピード記録だ。

今年に入り、目まぐるしい活躍を見せた照ノ富士。1月場所では東前頭2枚目の地位で8勝ながら初の三賞となる敢闘賞を獲得。新三役の座を確実のものにすると、新関脇として迎えた3月場所では初日から7連勝。1敗で迎えた13日目には36連勝中だった白鵬に4度目の挑戦で初勝利するなど13勝2敗の好成績を収め、殊勲賞・敢闘賞を獲得。大関昇進への期待が一気に高まった。
周囲の期待を一身に背負って臨んだ5月場所では初日にいきなり黒星を喫し、11日目には白鵬に敗れ3敗に後退。この時点では白鵬と平幕の魁聖が1敗であり、照ノ富士の大関昇進は持ち越しかと思われたが、その後白鵬が豪栄道、稀勢の里に敗れ、魁聖は3連敗を喫するなど波乱が起こる中で着実に星を積み重ね14日目を終わって白鵬と並び3敗、4敗で6人が並ぶ大混戦に。
そして千秋楽では碧山を破って12勝3敗。そして白鵬は照ノ富士の兄弟子でもある日馬富士に敗れたことにより、稀に見る混戦を制して初優勝を果たし、一度は遠のいたかに見えた大関の座を一気に手繰り寄せたのだった。

そんな照ノ富士だが、今に至るまでの道程は決して平坦ではなかった。
高校2年時までスポーツには興味がなく、学業では17歳で大学に合格するほどの優秀な成績を収めていたガンエルデネ少年だったが、親戚の知人であるモンゴル相撲の大横綱・ムンフバト氏(白鵬の実父)の勧めで柔道を始めた。
この頃、モンゴルでは朝青龍の日本での活躍により空前の大相撲ブームとなり、次第に大相撲を志すようになったガンエルデネは、2009年末に鳥取城北高校が行った留学生募集のセレクションに参加。50人の参加者の中で見事優勝(準優勝はイチンノロブ(逸ノ城)だった)。石浦外喜義監督(現校長)から直々に誘いを受けたガンエルデネは、翌年3月に来日し、イチンノロブらと共に鳥取城北高校に編入した。
留学直後に父の会社が倒産したこともあり、1年で芽が出なければモンゴルに帰るつもりで稽古に励み、2010年8月の沖縄高校総体に補欠ながらメンバー入り。決勝トーナメントから中堅に抜擢され、準々決勝の対埼玉栄戦で1-1状況から勝利するなどチームの優勝に貢献した。
2010年末、元横綱・2代若乃花の間垣親方からのスカウトを受けて間垣部屋に入門。しかし、そこからが苦難の道程であった。
師匠が大関時代まで名乗った四股名(若三杉)を取り入れた「若三勝」の四股名で興業ビザ取得後の2011年5月技量審査場所で初土俵を踏み、1年で幕下まで上り詰めたが、当時の間垣部屋は師匠の間垣が病気により指導がままならない上に部屋付き親方も不在で稽古を指導する者が誰もおらず、部屋の財政状況も悪化しちゃんこも碌に食べられない有様だった。
他の弟子たちが次々辞めていく中で、若三勝は兄弟子である駿馬や呼出の勝尚(現・照矢)と力を合わせこの現状に立ち向かうも、部屋の状況が災いしたのか足踏み状態が続いた。
2013年3月場所を以て間垣部屋は閉鎖となり、若三勝は駿馬、勝尚と共に伊勢ヶ濱部屋へ移籍。環境が一変したことで才能が開花した若三勝は2場所連続で6勝1敗の好成績を収め、十両に昇進。四股名も若三勝から、新たに師匠となった伊勢ヶ濱(元横綱・旭富士)の四股名と、旧伊勢ヶ濱部屋の横綱・照國の四股名を合わせた「照ノ富士」に改名した。
新十両として迎えた9月場所で12勝3敗とし、鏡桜との優勝決定戦を制し十両優勝。続く11月場所でも12勝3敗として十両を2場所で通過し入幕。その後の活躍は周知の通りである。

環境が良くなったことで才能が開花したとよく言われているが、決してその環境に甘えることなく、間垣部屋時代の苦労を糧にして日々の稽古に精進したことが好結果につながったといえるだろう。
勿論それは大関に昇進し、そこからさらに上(横綱)を目指すこれからにも大いに活かされるはずだ。

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コメント

  1. 山田 芳江 より:

    昨年の9月場所から
    大相撲に色気を復活です
    20年ぐらいご無沙汰していたので
    照の富士関が 目に止まり ストップが
    止まりません 期待しています。